・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2016/09/07

シンポジウム「新渡戸稲造の精神をどう活かすか」

2016年9月4日(日曜日)

地域博物館シンポジウム
新渡戸稲造の精神をどう活かすか
〜新渡戸記念館の現状と未来への挑戦〜

東京文化財研究所セミナー室(東京都台東区)

開会 日髙 真吾 国立民族学博物館文化資源研究センター准教授
主催者 あいさつ
来賓  あいさつ 安倍昭恵 首相夫人
         コシノジュンコ ファッションデザイナー

第一部 基調講演
1 新渡戸稲造と文化の力 〈キャンセル〉 青柳正規 前文化庁長官 
2 新渡戸記念館を活かした歴史まちづくりについて考える
             三井所清典 芝浦工業大学名誉教授

第二部 パネルディスカッション
新渡戸記念館の価値をどう地域の未来に活かすか
コーディネーター 半田昌之 公益財団法人日本博物館協会専務理事
パネリスト    世界の中の新渡戸記念館
         前田耕作 アフガニスタン文化研究所 所長
         生田勉 建築としての価値
         笠覚曉 金沢工業大学教授
         地域博物館としての価値
         矢島國雄 明治大学教授
         外国人の視点から見た価値
         マンリオ・カデロ サンマリノ共和国特命全権大使
         十和田市民の視点から見た新渡戸記念館問題
         保土沢道是 新渡戸記念館を守る会
         新渡戸記念館の所蔵資料の特長
         角田美恵子 新渡戸記念館ボランティア(学芸員)
(敬称略)

会場にて、
パネル展示「新渡戸稲造が残した小さな博物館「新渡戸記念館」の魅力 
〜資料・建物・地域〜


建築物として、地域博物館として、また、所蔵資料の継承と活用について、
それぞれのご専門、視点からの広範で多角的なご発表で、大変勉強になりました。

今後、新渡戸稲造博士の志に沿う方向で、保存・活用されるよう願っています。
会場で、また懇親会では、さまざまなお話を伺う貴重な機会になりました。
ありがとうございました。


2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/08/03

クラーク博士の関連文書が札幌市文化財に。

2016年8月3日(水曜日)

本日の岩手日報に次のようなニュースが掲載されています。

クラーク文書 文化財に 新渡戸署名の「契約」も 札幌市指定

札幌市は、北海道大の前身・札幌農学校の初代教頭クラーク
(1826〜86年)が起草し、盛岡市出身の新渡戸稲造や、内村鑑三らが
署名した「イエスを信じる者の契約」や聖書など、クラークゆかりの
キリスト教関連文書7点を、市の文化財にこのほど指定した。
札幌市によるクラーク関連の文化財指定は初めて。
市によると、いずれも札幌市中央区の札幌独立キリスト教会が
所有する。


2016/07/25

拓殖大学に「台湾研究センター」開設

2016年7月23日(土曜日)

このたび、拓殖大学様に「台湾研究センター」が開設になり、
その記念シンポジウムにお招きいただきました。

拓殖大学 文京キャンパス
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂にて
主催:拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター

大変興味深い内容のご講演でした。
特に、羅福全氏のご生涯には、感慨深いものがありました。
日本の統治時代の台湾に生まれ、日本の教育を受け、その後、
アメリカで学び、国連で活躍されました。
現在は、何年間も帰ることができなかった台湾に戻り、ご夫妻で
幸せな日々を送っていらっしゃいます。
この日は、夫人もご一緒に会場に元気にお見えになりました。

第一部
記念講演「台湾と日本のはざまに生きて」 
羅福全 (元 台北駐日経済文化代表処 代表)

第二部
基調講演

鶯歌庄文書研究の意義―同風会に関する文書から見る日本統治期台湾の基層社会
玉置充子(拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター専任研究員)

Ⅱ.
日本統治時代に日本商人がもたらした台湾社会近代化の諸相
陳柔縉(コラムニスト)

今後の同センターのご発展を祈念いたします。

このたびは、貴重な機会をありがとうございました。

2016/07/20

1900年のパリ万博

2016年7月16日 有田(佐賀県)

九州滞在中のこの日、初めて有田にご案内いただきました。
有田焼きで有名なこの地を訪問するのを大変楽しみにしていました。

深川製磁様の忠次館で、思いがけず、1900年パリ万博に出品し金賞を受賞した
大花瓶を拝見することができました。

忠次館の内部 右奥にパリ万博で受賞した大花瓶

深川製磁様発行の資料(左が受賞作品の大花瓶)

新渡戸稲造博士は、このパリ万博で審査員をされました。
1900年1月、アメリカにて、英語による『武士道』を出版、
同年4月、パリで審査員。
夏ごろまでヨーロッパに滞在し、ジャンヌ・ダルクの史跡なども
巡っています。

◆1900年第五回パリ万博◆ 
1900年4月15日〜10月12日
入場者数:5086万1,000人(国会図書館ホームページより)


今年(2016年)は、有田焼き創業400年。
長い伝統を現代に引き継いでいます。

レンガの壁が美しい忠次館

忠次館 入口

◆深川製磁◆
1894(明治27)年、深川忠次氏により設立。
「世界一のやきもの作り」をめざしました。
1900(明治33)年、パリ万博に出品した2メートルにも及ぶ、対の大花瓶
「染錦金襴手丸紋鳳凰文様」は、高い工芸性と洗練されたデザインが評価され
金賞 Medaille D'or (gold medal) を受賞しています。
同社は、その伝統を現在も受け継ぎ、皇室のご注文品も制作しています。

このたびは、明治時代から使用されている工房も特別に見学
させていただきました。


貴重な木造建築、そして、人から人へと伝承され続けている技術など、
伝統の素晴らしさを実感しました。
また、資料室にて、歴代の貴重な作品を拝見させていただきました(非公開)。
素晴らしい機会を本当にありがとうございました。



テレビ番組「フィンランドで見つけたBUSHIDO」

2016年7月

岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。

約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。

◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ

2016/06/13

新渡戸博士の農業思想

2016年6月 読書メモ


『現在に生きる日本の農業思想 安藤昌益から新渡戸稲造まで』
2016年1月30日 ミネルヴァ書房


第一章 グローバル化のなかの農業思想
    内村鑑三と新渡戸稲造     並松 信久

第二章 二宮尊徳思想の現代的意義
    幕末期の農村復興に学ぶ    並松 信久

(第三章 中国における尊徳研究の動向と可能性)
    
第四章 安藤昌益の人と思想
    直耕・互性・自然       三浦 忠司

「新渡戸君の結婚問題」

2016年6月12日(日)

『財界回顧』池田成彬 述 世界の日本社 昭和二十四年七月二十五日

第二章 慶応大学とハーヴァード大学
p.35〜36より

・・・ハーヴァードの教育の革新だというのは、
グリーク(ギリシャ語)、ラテンというものは御承知のように
西洋では、大變(大変)なもので、それをやらなければ学生として
問題にならんといわれておったのを、私に対し特に免除したというので、
新聞はエリオット総長の英断をほめて書き立てたものでした。
序でに(ついでに)セイヒン・イケダという日本の学生の名が方々の
新聞に出たもんだから、私の所へ知らない人から手紙が来て、
えらくセンセーショナルなものになりました。
その時に新渡戸稲造君がフィラデルフィヤでそこの馬車鐵道會社社長の
娘さんを奥さんに貰いました。その當時日本人というと軽蔑されておった
時ですから、これもビッグ・ニュース。私の學校のことが載った直後に
又新渡戸君の結婚問題がフロント・ページにでかでかと出たものです。

以上、同書から引用。( )は筆者加筆。


2016/06/07

ムーミンの著者トーヴェ・ヤンソンが描いたフィンランド

2016年6月5日(日)

日本では、あまりにも有名なキャラクター「ムーミン」。
その作者トーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)氏(1914〜2008)は、
スウェーデン系フィンランド人として、ヘルシンキに生まれた。
もともと画家として活躍し、当時に政治風刺雑誌「ガルム」にも
多くの絵を描いています。

20世紀前半のフィンランドが置かれた状況は、歴史、文化、地理などの
影響により複雑なものでした。
そんな中、1921年に国際連盟にその解決を委ねたのが、オーランド諸島の
帰属問題でした。当時、事務次長で国際部長だった新渡戸博士は、
その裁定をおこないました。
国際連盟がおこなった紛争解決の中で、成功事例として、
いまにも伝えられている「新渡戸裁定」です。

『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界 ムーミン・トロールの誕生』 
(冨原眞弓 著 青土社 2009年5月)から、以下を引用します。

p.68〜「オーランド解放区」

 フィンランドには一種の解放区がある。オーランド諸島である。
バルト海の多島海域に浮かぶ約6500の島嶼(とうしょ=大きな島や小さな島)
の総称で、スウェーデンの首都ストックホルムとフィンランドのトゥルク
(スウェーデン時代の首都オーボ)の中間に位置する。
1809年にフィンランド本土とともにロシアに割譲されるまでは、
歴史的にも文化的にもスウェーデン王国の一部であった。
住民のほとんどがスウェーデン語を話し、フィンランドではなく
スウェーデンへの帰属意識のほうが強い。ロシア領となってからも、
自分たちはスウェーデン人だと思っていた。本土のフィンランド人とはことなり、
フィンランド人かロシア人かというジレンマは存在しなかった。

 フィンランドがソヴィエト=ロシアから独立したのちも、オーランドの
帰属をめぐって、フィンランドとスウェーデンは争った。この紛争の決着に
道筋をつけたのは、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造である。
1921年、ジュネーブ本会議で「新渡戸裁定」が承認された。
オーランドはスウェーデン語の使用、スウェーデン文化や習慣の維持、
内政自治を手に入れた。

 フィンランドは、オーランドを領有する権利とひきかえに、
オーランドに内政自治を保障する義務を課せられた。スウェーデンは
得るものがなかった。オーランドの非武装・中立化のほかには。
フィンランドとスウェーデン双方の痛み分けで、オーランドの希望が
ほぼ認められた。現在も、オーランドがフィンランドとスウェーデンを
つなぐ重要な中継地だ。今日、フィンランドからスウェーデンへの移住を
希望するものは、かならずといっていいほどオーランドに五年とどまる。
この通過儀礼をおこなうだけで、オーランド人にあたえられている特権、
すなわちスウェーデンへの自由な移住という特権が手に入るのである。

(以上、引用おわり)

 とはいえ、この帰属問題は、フィンランド本土に住むフィンランド系と
スウェーデン系に大きな影響を及ぼしたようです。
 同書の第七章「ひとつの国、ふたつの言語」では、当時の雑誌などに
掲載された記事から、双方の心情を読み取っています。

(以下、同書p.99〜「オーランド、どこへいく」から抜粋)

 フィンランド本土が独立と内戦の混乱のただなかにあったとき、
オーランド諸島の住民たちは、いまこそスウェーデンへの帰属を
嘆願すべきと考えた。スウェーデン王も政府もこの表明を歓迎する。
ロシアに奪われた領土の一部を取り戻すチャンスでもあった。
 1917年12月5日、フィンランド独立宣言の前日というタイミングに、
オーランドの嘆願書が提出された。フィンランドが国としての命運を
かけて戦っている時期であったので、大半のフィンランド系は憤慨し、
当惑したスウェーデン系も少なくなかった。本土におけるスウェーデン系の
立場を悪くすると心配するものも多かった。

 当時、オーランドの人口は、27,000人程度。そのうち成人の7,097人が
復帰嘆願に署名した。

 オーランドの「分離主義」あるいは、「母国復帰願望」は、
フィンランドを二分する階級とイデオロギーと言語の亀裂をあらためて
浮き上がらせた。
 オーランド帰属問題で、割をくったのは、本土のスウェーデン系だった。
内心は同じ穴のムジナだろうと、フィンランド系の不信を買ってしまった。
純正なフィンランド系をとなえる学生たちは、公教育でのフィンランド語化を
訴えた。一般に、フィンランド系の学生は、両親もスウェーデン語を話さず、
学校の授業も友人もフィンランド語(スウェーデン語は一教科にすぎない)。
ところが、高等教育では、講義のほとんどがスウェーデン語になり、
フィンランド語が母国語であることがハンディになる。
 政府も、どちらの言語でも選んで学ぶことができる制度を導入する案などを
出したが、なかなかうまくいかなかった。
 それから数十年後、我が子の将来を考えて、多数派のフィンランド語教育を
選ぶスウェーデン系の親を「親心と打算がスウェーデン語を滅ぼす」と
雑誌「ガルム」は警鐘を鳴らした。

(以上、同書より抜粋)


 隣国との国境問題は、いまでも世界各地で起こっています。その背景には
長年の両国の関係や、地理的要素、文化、言語にいたるまで、複雑な状況が
からんでいることを、今回は、雑誌から垣間みることができました。

(フィンランドが独立して数年後の1923年、雑誌「ガルム」は産声をあげた。
トーヴェ・ヤンソンは、四半世紀の間、「ガルム」ほか多くの新聞雑誌に
千枚以上の絵を描き、1940年代後半には、その絵の八割以上にムーミントロール
が姿を表わしているそうだ。風刺画の隅っこにちょこっと、その愛らしい姿が
見える。)

鎌倉 第81回 円覚寺夏期講座 円覚寺 大方丈にて 
6月5日「ムーミンを哲学する」 冨原 眞弓 聖心女子大学 哲学科教授





日本両親再教育協会

「日本両親再教育協会」は、
1928(昭和3)年、新渡戸博士の東京帝国大学教授時代の教え子の一人、


上村哲彌(かみむらてつや)氏が中心になって創立された民間組織。
後藤新平伯と新渡戸稲造博士は、顧問に就任しています。
会長は、松本亦太郎(まつもとまたたろう)。


同会によって出版された「子供研究講座」第十巻(昭和4年7月11日発行)に、
新渡戸博士は、「親の道」を寄稿しています。

冒頭、新渡戸博士は、東西の二聖人、釈尊とキリストの話を引用しています。
そして、「親子の関係が真にその素質通りにまっすぐにのび、まさにあるべき
境地まで到るには、まず親子の関係の土台である夫婦の関係がその真面目を
発揮せなばならぬ」と書いています。

成瀬仁蔵著『新婦人訓』からテニソンの詩の訳を紹介。
「子のために、親はまず生きがいある生活を営め」としています。

「・・・親子の間に常に感応があり、親の生命が子を育て、
子の成長が親をさらに発展せしむるという親子本来の関係を
どこまでも続けることは、
親の幸福であり、子の健全なる発達の基である。
 それがために親はなにをますべきかといえば、
子の信頼と敬愛を続け得るため、その人格を常に向上させ、
子の進歩と共にますます彼の光たり得るよう生活することである。」
(同書 p.14より)



2016/06/01

講座「新渡戸稲造ものがたり」(鎌倉市)

2016年5月 鎌倉市生涯学習推進委員会

鎌倉市の大船学習センターにて、下記のような連続講座をさせていただきました。
大変学び多い4日間になりました。
関係者の皆様、聴講くださいました皆様、本当にありがとうございました。



 〈 新渡戸 稲造 〉 全四回 大船学習センター

「新渡戸稲造ものがたり
 〜真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける〜」

 ① 5月10日(火曜日)  ② 5月17日(火曜日) 
 ③ 5月24日(火曜日)  ④ 5月31日(火曜日)
 各10時〜12時


第一回 2016年5月10日(火曜日)

はじめに
 ・自己紹介
 ・伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

1 わんぱくな幼少時代
 
 ・武士の家に生まれた少年、稲之助
 ・祖父と父の開拓者精神(フロンティア・スピリット)
 ・近所でも有名なわんぱく坊や
 ・父がなくなる
 ・武士の時代の終わり 戊辰戦争
 ・西洋、英語との出会い

2 親元を離れて東京へ

 ・明治時代の東京
 ・本格的な英語の勉強と講談による人生勉強
 ・人生を決めたできごと

3 「ボーイズ ビー アンビシャス!」クラーク博士 
   札幌農学校(現在の北海道大学)

 ・クラーク精神「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」
 ・キリスト教の洗礼を受ける
 ・悲しみの帰郷
 ・生涯の友人、愛読書に出会う

4 「太平洋の橋になりたい」東京大学

 ・「われ、太平洋の橋とならん」


第二回 2016年5月17日(火曜日)


5 アメリカ、ドイツ留学と結婚

 ・アメリカ留学と学友ウィルソン
 ・クエーカーになる/モリス家に集った日本人留学生たち
 ・メアリーとの出会いと結婚
 
6 母校 札幌農学校教授と遠友夜学校

 ・遠益(トーマス)の誕生
 ・新渡戸夫妻の夢「遠友夜学校」

7 世界的な名著『武士道』

8 台湾の発展に尽くして

 ・後藤新平との出会い

9 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長

 ・ソシアリティー(社会性)の大切さ
 ・専門センス(専門的知識)よりコモンセンス(常識)
 ・日米交換教授


第三回 2016年5月24日(火曜日)

10 東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長

 ・東京帝国大学 植民地政策講座
 ・日本人道会 動物愛護運動
 ・銀婚式 新しい決心
 ・拓殖大学 学監就任と後藤新平学長とのコンビ復活
 ・東京女子大学の建学 初代学長に就任
 ・農人形
 ・軽井沢夏期大学

11 国際連盟事務次長

 ・かつての学友 ウィルソン大統領が提唱した世界で初めての国際平和機構
 ・国際連盟の輝ける星
 ・国際領土問題を解決「新渡戸裁定」
 ・国際知的協力委員会(ユネスコの土台作り)
 ・ジュネーブの「日本の家」

12 晩年の生き方
 ・平和の使徒として 
 ・太平洋問題調査会(IPR)と最後の旅


第四回 2016年5月31日(火曜日)

13 没後 新渡戸博士が遺したもの

 ・メアリーの晩年
 ・「遠友夜学校」の閉校と現在
 ・教え子たち「稲造の精神的子孫」
 ・『武士道』のその後
 ・カナダの新渡戸記念公園
 ・皇室とクエーカー
 ・諸宗教の根底にあるもの

14 鎌倉と新渡戸稲造博士

 ・別荘跡(稲村ケ崎)とその周辺
 ・母の五十回忌法要
 
15 一人の人物の生涯から学ぶ

 ・ノンフィクション
 ・「伝記」=もう一つの人生
 ・伝記の効用と歴史の学び
 ・「出会い」






2016/05/25

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』

2016年5月22日(日曜日)午後6時〜

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』出版記念会

アルカディア市ヶ谷(私学会館)東京・市ヶ谷

このたび、藤井茂氏(新渡戸基金事務局長)と
長本裕子氏(新渡戸文化中学校高等学校 元校長)の共著、
『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』が出版されました。
同書は、昨年、お二人が盛岡市の新聞「盛岡タイムズ」に
一年にわたり毎日連載した新渡戸博士の言葉とその解説を掲載しています。

出版記念会には、新渡戸文化学園の先生方や新渡戸研究に関わって
いらっしゃる多くの方々がご参集されました。

あらためまして、著者のお二人に心よりお祝いを申し上げます。






草原先生による祝辞




発行:一般財団法人 新渡戸基金
   2016年5月28日



拓殖大学グローバル ファシリテーター育成塾

2016年5月21日(土曜日)
拓殖大学 文京キャンパス
グローバル ファシリテーター育成塾

今年度も新渡戸稲造先生(拓殖大学第二代学監)について
お話をさせていただきました。
さすがに選抜された意欲あふれる学生さんたちです。
今後の活躍を期待しています。
貴重な機会をいただき、ありがとうございました。










2016/05/21

『田中館愛橘ものがたり』

2016年5月21日(土曜日)

このたび、『田中館愛橘ものがたり ひ孫が語る「日本物理学の祖」』
を刊行いたしました。
田中館愛橘(たなかだて あいきつ)博士は、新渡戸博士と同じ、
南部藩の出身です。現在の岩手県二戸市に生まれました。
世界的に活躍された学者です。
地球物理学のほか、地震の研究、航空学、またローマ字の普及にも
取り組まれました。

田中館博士(1856年〜1952年)は、長年、新渡戸博士とも親交がありました。
また、新渡戸博士が主導した国際連盟の知的協力委員会(いまのユネスコの前身)
の委員も務めました。

同書『田中館愛橘ものがたり』では、
晩年に博士と共に生活された、ひ孫の松浦明様が、家族ならではの逸話なども
紹介され、子どもたちに優しく語りかける内容になっています。

松浦様の労作になりました。
このたびのご出版に心よりお祝いを申し上げます。
また、奥様の郁子様をはじめ、ご協力いただきました関係者の皆様に厚く御礼を
申し上げます。



発行:銀の鈴社
   2016年5月21日

田中館博士の出身地、二戸訪問については、こちら

2016/05/07

近衛文麿首相の別邸「荻外荘」

2016年5月6日(金曜日)午後6時〜
講演会「近衛ファミリーの昭和」
講師:工藤美代子氏
セシオン杉並ホール

新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長だった時の教え子の

一人で、戦前に総理大臣を3度にわたって務めた近衛文麿公爵の
別邸「荻外荘(てきがいそう)」が、このたび、国の史跡に
指定されました。
この別邸では、「荻窪会談」(昭和15年)など
重要な政治会談もおこなわれました。
終戦後、1945(昭和20)年12月6日、GHQより逮捕令が発せられ、
出頭当日の12月16日早朝、
近衛元首相は、荻外荘の書斎にて自決しました。


近衛文麿(1891年〜1945年)首相は、新渡戸博士の没後、

次のような内容の追悼文を書いています。

私が初めて新渡戸先生を知ったのは、

学習院中等科の在学中、一高の新渡戸校長が学習院で講演。
あれほど感動したことはなかった。
一高を受験。新渡戸先生が校長であるということが主な動機であった。

先生は私の父とドイツのボン大学で一緒だった。


入学すると、毎週一回の修身講和を聞き、

「人格の完成、自分自身を反省して掘り下げていくこと、
名誉や立身出世は究極の価値あるものではない」ことを教えられ、
貴重な感化を受けた。
大学卒業後、先生が「なにをやるのか」と言われるので、
「なにをしたらよいか」と尋ねたら、
「君は立場が違う。一通りいろいろなことを心得ておくことがよい」
「あらゆる人とつきあってみよ」
と助言を受けた。
先生は、当時、内務大臣だった後藤新平さんに話をしてくれ、
私は、内務省文書課に行った。 

「新渡戸稲造全集」別巻一 p.170〜「新渡戸先生」より抜粋


記念特別展 「荻外荘」と近衛文麿

平成28年4月29日〜5月29日
杉並区立郷土博物館

2016/05/01

益子 ナンドール ギャラリー

2016年4月30日(土曜日)

栃木県益子(ましこ)の「ワグナー・ナンドール アートギャラリー」を
再訪しました。
ここは、故ワグナー・ナンドール氏の自宅兼アトリエでした。
現在は、奥様の千代様がお住みになり、春と秋に一カ月ずつ
公開されています。
お庭やギャラリーが美しく、大変興味深く、大好きな場所の一つです。






ワグナー氏は、ハンガリー出身の彫刻家。
その数奇な生涯は、下村徹氏のご著書『ドナウの叫び 
ワグナー・ナンドール物語』で詳しく描かれています。
同書によると、ワグナー氏は幼い時、祖父(オーストリア・
ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の侍従武官長)から
「ブシドー(武士道)」について教えられ、
新渡戸博士の著書『武士道』を紹介されています。

代表作「哲学の庭」は、ワグナー氏の宗教観、思想観が表現されています。
新渡戸博士の「諸宗教の根底にあるもの」にも通じる世界観と思います。







Wagner Nandor(和久奈 南都留)1922年〜1997年(1975年、日本に帰化)

ワグナー・ナンドール記念財団のホームページは、こちら


2016/04/25

1920年代の米国製自動車

2016年4月24日(日曜日)

新渡戸博士のジュネーブ在住は、1920年〜1926年でした。
国際連合ヨーロッパ本部内の古書室の資料によりますと、
1926年、新渡戸博士が国際連盟事務次長を退任し帰国する際、
米国製の車、Buickを日本に輸送することを検討したようです。
結局、現地の秘書に処分を頼み、日本に持ち帰ることはありません
でした。



ジュネーブ郊外の新渡戸邸にて(『新渡戸稲造ものがたり』p.178より)

このたび、
1927年製の米国車「Hudson Super Six」(エンジンは1917年製)に
乗せていただく機会がありました。
当時は、米国製の自動車が主流だったようです。








クラッチの操作が難しく、当時の運転はとても大変だったと思います。
デザインは細部までとても美しいです。





2016/04/23

興農学園 みかん村とデンマーク教育

2016年4月22日

静岡県三島に出張中のこの日、沼津市明治史料館を訪問して、
興農学園(こうのうがくえん)について資料を拝見しました。

興農学園は、札幌農学校第一期生の渡瀬寅次郎博士の遺言によって
いまの久連(くづら)に設立されました。
昭和4年6月13日の開校式に、新渡戸博士は大島正健博士らとともに
列席しています。
礼拝堂は、ヴォーリスの設計。
校舎内には、新渡戸博士の揮毫「Boys, be ambitious」が掲げられました。
(この扁額は、長く久連に保管されていましたが、1983年、
財団法人興農学園から北海道大学に寄贈されました。

興農学園は、デンマークのフォルケ ホイスコーレ(国民高等学校)を
モデルとしたキリスト教主義に基づく私立の農業学校でした。

参考資料:「興農学園 みかん村とデンマーク教育」
     2000年12月1日 沼津市明治史料館


2016/04/20

ガールズ、ビー・アンビシャス!

2016年4月15日(金曜日)18時〜21時
学士会館(東京・神保町)にて

「堀田国元博士 講演会」

主催:武士道講読会
後援:北海道大学東京同窓会、東京女子大学同窓会、
   札幌農学同窓会東京支部
協賛:エルム27会・東京

このたび、堀田国元様(機能水研究振興財団理事長)が、
留学第一号の女医である岡見京(おかみけい)医師について
講演をされました。
堀田様は、新渡戸稲造博士と岡見千吉郎・京ご夫妻のご関係から
当時の福沢諭吉や岡見家、新渡戸人脈につながる大変興味深い
関係についてご研究されておりました。
一昨年、そのことについて同会でご報告されていましたが、その後、
こうして短期間で本にまとめられました。

講演「ガールズ・ビー・アンビシャス 留学第一号女医 岡見京物語」
御著書『ディスカバー 岡見京』

この日は、堀田様の恩師であり、また、岡見ご夫妻のお孫様でいらっしゃる
岡見吉郎 元北大教授とご家族、岡見家の方々、東京女子大学学長の小野祥子様、
東京女子大学同窓会長の山田純子様、東京女子大学の学生さんたち、
そして、書籍化にご尽力された古田清二様もご出席になりました。
また、普連土学園理事の大津先生とも久しぶりにお目にかかることができました。

堀田様によりますと、一冊の本に書かれた新渡戸博士の署名、
「昔の心弟 新渡戸」
この署名がきっかけになり、この研究が始まったそうです。

当時の人々を結ぶご縁、そして、結婚してから夫婦別々の地へと留学し、
妻は留学女医第一号になりました。
現在、日本には約55,000人の女医がいると堀田様がおっしゃっていました。
その先駆けとなった岡見京医師の生き方が、現在医療現場で奮闘する女医の
方々をはじめ、広く知られるよう願っています。







2015/12/31

藤田正一著『札幌遠友夜学校』

2015年12月

札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。

遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら



藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら


2015/12/30

田中耕太郎「私の履歴書」

2015年の夏、カーライルハウス(ロンドン)での調査で、
新渡戸稲造博士は、ロンドン在住期間に二度カーライルハウスを
訪問して記帳していることがわかりました。
(訪問の記事は、こちら。)

このうちの一回は、当時、新渡戸博士宅に滞在中だった
一高校長時代の教え子、田中耕太郎と並んで署名しています。

田中耕太郎博士は、日経新聞の「私の履歴書」に経歴や一高時代の
思い出、新渡戸校長について書いています。以下、読書メモ/引用。


『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 昭和59年

田中耕太郎(最高裁長官) p.305〜382

父は、判事、のちに検事。

母は、徳富蘆花の『名婦鑑』を愛読し、
父は、自ら孝経をはじめ、論語や孟子の講義をしてくれた。
儒教以外にもキリスト教にもひきつけられていて、
「人が見ていなくても神が見給う」というようなことを
言っていた。
母は西洋料理を習って知人を手料理でもてなしたり、
婦人の改良服を考案し・・・
父母は田舎での生活改善運動の率先者であった。

明治41年の秋、旧制一高に入学(第一部独法科)。
私は、とくに当時の一高の教育が明治以降の日本教育史上における
もっとも成功した事例としてあげ得ると思う。
・・・一高の特色は学問や芸術を通じ、自らの人格の力でもって
人生の意義を教える一部の教授と、その個人的な指導を受けた生徒に
よって維持されていた。
・・・
私の在校三年間は、ヒューマニストの教育者で愛国者かつ国際主義者の
新渡戸稲造先生の校長としての全盛時代であった。
思想的文化的雰囲気は極端に自由であり、百花らんまんの観を呈していた。
三年生には、岩下壮一、和辻哲郎、九鬼周造・・・といったそうそうたる
人物・・・、田舎出の新入生に目のくらうような未知の輝かしい世界が
出現したのである。
・・・漠然と正しいもの、美しいものを求める気持ちにかられるだけである。
そこに喜びと誇りとがあった。
・・・もっとも根本的な問題は、何になるかではなく、如何に生きるかであった
ことはたしかである。明治的青年の立身出世主義は軽蔑された。生活のための
職業以外に、はるかに崇高な世界があるとこと、人間として身につけておくべき
教養の権威が教えられた。新渡戸先生の三年間の科外講義の題目として
選ばれたファウストや「衣装哲学」や「失楽園」は、当時の私の理解の程度を
はるかに超えるものであった。しかし先生がこれらの愛読書を講読された
その情熱に深い感動を覚えた。
・・・三年の寮生活は、一生涯続き、その後の人生の行路に
大きく影響を及ぼし合った交友関係を作った。

p.319
病気療養中、私は宗教書に親しむようになった。
とくに内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」の中にある
「時計の構造は時計師のみが知っている、人間を造った神のみがこれを
知る」という意味のことばは、私の病気の奇跡的全快と思い合わせて
深い感銘を与えた。これは神の存在のまことにわかりやすい証明のように
思われた。

p.321
(徳富)盧花は私の知るかぎり、二回一高の教壇に立った。第一回は私の
入学の前年、「勝利の悲哀」という演題で全校生の血をわかしたそうである。
私が聞いたのは、卒業の年(明治四十四年)幸徳秋水の大逆事件の直後に
やった「謀反論(むほんろん)」であった。農民の預言者といった風体の
盧花は、ホーンのようなとぎれとぎれの、高い裏声で一昔前の反逆者も
時勢が変われば人々がその徳をたたえることになることを吉田松陰と
井伊掃部頭(いいかもんのかみ=井伊直弼)の例をひいて説き、
死刑に絶対反対を表明し、幸徳などの助命を出張したのであった。
この講演が当時の時勢として問題にならないわけはなかった。
それは新渡戸校長の進退問題にまで発展した。当時の情勢下で校長が
辞職をしないですんだのがむしろ不思議なくらいである。
こういうふうに一高三年間の思い出はつきない。残っているものは
師と友と書に対する感謝の気持ちである。これらは我々にパンを得る
のに役立つものを与えてくれたわけではなかった。しかしほんとうの
人生に必要なものを供給してくれた。実際我々は民法や刑法はもちろん
憲法の条文すらのぞいて見たことはなかった。

p.324
科目の勉強にはずいぶん時間をかけたが、余暇がないわけではなかった。
一高でそだった我々の仲間は法律学だけに没頭できなかった。いわゆる
勉強家と認められていた我々の中には点取り虫になること立身出世に
浮き身をやつすことに対する軽蔑の気持ちがあった。法律の書物以外に
外国語の文学書を耽読したものである。一番われわれが精力を傾注し
勉強時間の半ばくらいを費やしたのは、前に述べたキューゲルゲンの
「一老人の幼時の追憶」の翻訳であった。
これには一高卒業の年の夏休み前から着手した。
・・・我々は新渡戸稲造先生の紹介で森鴎外先生の校閲を依頼に先生の
団子坂上の邸宅にでかけた。鴎外先生は馬上でも読書をされているくらい
多忙だったときいていたから、ずいぶん厚かましい次第である。

p.338
ロンドンはパリ平和会議のあおりを食って宿舎難であった。私は市の西部
ホッランド・パーク六十六番の新渡戸稲造先生のパンションに、
数週間先生の応接間のソファの上で起居させてもらった。そのころ先生の
札幌時代からの親友の宮部金吾博士もそこに滞在していられた。
新渡戸先生は当時ロンドンにあった国際連盟の事務局の事務次長であった。
その間に私は偉大な教育者、国際主義者でかつ愛国者の人格や思想、
教養、日常生活にはじめて身近に接する得難い機会をもった。
先生はスプーンの上げ下ろしにいたるまで、必要なエティケットを
教えられた。我々は毎日のようにストーブをかこみながら夜を更かした。
クエイカーの教会にお伴にたこともあった。一緒に方々にでかけた。
シェイクスピア劇の切符は先生が、安価な音楽会の方は私が買うことに
した。私は先生の慈父の愛につつまれて、ロンドンの生活をはじめた
のである。
エピスコパル教会の牧師の紹介で、私はチェルシーの「カーライルの
家」に遠くない、信者の寡婦の家に室を見つけた。

引用おわりーーーーー(主に新渡戸校長と関わるところを抜粋)


田中氏は、その後、大正十一年(1922年)の初夏に帰国。
さまざまな遍歴を経て、最高裁判所長官を10年、さらに、国連で
国際司法裁判所判事に当選し、オランダのハーグに着任しました。
(昭和49年3月1日 没)

ハーグの国際司法裁判所(平和宮)については、こちら