・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2014/07/05

新渡戸国際塾 「武士道」と日本人

2014年6月28日(土)国際文化会館(東京都港区)

第7期 新渡戸国際塾 公開講演
「武士道」と日本人
山本 博文 東京大学史料編纂所 教授



1 新渡戸稲造『武士道』の構成

2 新渡戸稲造『武士道』の特徴
  外国人が見た日本人の特質
  大災害と日本人

山本先生は、16世紀以来、日本を訪れた外国人が記録に残した
日本人の特質についての記述を紹介。
また、2011年の東日本大震災に対処した日本人の忍耐力などには、
海外から賞賛の声があがったが、
安政東海大地震の際にも、同様に日本人の気質に触れた記録があったことも
紹介されました。

〈山本先生のレジュメより〉

「日本人と名誉心」
・新渡戸稲造氏の『武士道』で、日本人の美徳とされたものは、
 名誉心と忍耐心
・新渡戸氏は、これを「武士道」の徳が全国民に及んだもの、と考えた
・しかし、日本に初めて来たヨーロッパ人フランシスコ・ザビエル以来、
 日本人の名誉心と忍耐心は、日本人の国民的気質と認識する者が多い。
・新渡戸氏の『武士道』は江戸時代の武士の姿を説くものではなく、
 氏が理想とした日本人像だったのではないか。

〈山本先生のレジュメ 終わり〉


(「士農工商」それぞれの役割を果たすこと。
  インドのカースト制のような身分の上下をあらわすものではない。)
(島国でもある日本には、古代からの一体感があったのではないか。
 → 一国の中で、恥ずべき行動はできない。)


会場の国際文化会館(IHJ)は、新渡戸博士とのご縁も深い場所です。
詳しくは、同館の「歴史」ページ、こちらへ。
国際文化会館のホームページは、こちら



「丸山眞男先生 生誕100周年 シンポジウム」東京女子大学

2014年6月27日(金)東京女子大学 丸山眞男記念比較思想研究センター

丸山眞男 生誕100周年 シンポジウム
現代世界の丸山眞男をどう読むか

新渡戸稲造博士が初代学長を務めた東京女子大学(東京都杉並区)に、
かつて近隣に住まわれた丸山眞男先生の蔵書が寄贈され、同大学には、
丸山眞男記念比較思想研究センターがあります。

このたび、同センター主催のシンポジウムが開催されました。




文部科学省「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」
20世紀日本における知識人と教養
ー丸山眞男文庫デジタルアーカイブの構築と活用ー

シンポジウム詳細については、こちら

丸山眞男先生は、南原繁博士(東京帝国大学法学部教授、のちに総長)の教え子、
南原繁は、新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長だった時の生徒で、新渡戸校長から
大きな影響を受けています。
丸山眞男先生は、いわば、新渡戸博士の孫弟子のような存在といえるかもしれません。

小野学長による開会のご挨拶に続き、苅部直(かるべただし)先生の基調講演が
ありました。
苅部先生(東京大学法学部教授。『丸山眞男ーーリベラリスト』でサントリー賞)の
お話は大変わかりやすく、また、内容は、南原先生、新渡戸先生の思想に通じるものも
感じ取れるように思いました。

政治のための教養ーー丸山眞男百歳 苅部 直(かるべ・ただし)

今年、2014年は、第一次世界大戦の開戦(1914年)から100年。

1 出発点としての1945年
  (第二次世界大戦が終結した1945年が日本におけるデモクラシーの出発点)

戦後まもなく、三島(静岡県)に庶民大学三島教室が開校(三嶋大社)。
丸山眞男先生は講師を務めた。生徒は、農民や商人など、一般の人々。
ここでの経験が、のちの丸山眞男先生の学問に大きな影響を与えることになる。

〈苅部先生のレジュメから転載 ↓〉

「デモクラシーと人間性」
(『庶民大学通信』1946.4 『丸山眞男集』第16巻 岩波書店)

「どんなに意見や利害がちがっていてもよく話し合えばお互いの立場が了解され、
 円滑な共同生活が出来るという考え方は、人間が自分を反省する能力があることが
 そもそもの立て前になっているわけです。
 この自己反省の能力が則ちわれわれの理性であり、
 自由主義や民主主義はこうした人間理性に対する信頼を基盤とした主張です。
 私が人間性に対する楽観主義といったのはこの意味です。
 従って、それは決して人間が現実のままで完全であるとか、
 人間の性質のなかには悪がないとかいう意味ではありません。」

「民主主義は自由主義の主張を政治的・社会的にひろげていったものです。
 歴史的に言っても、封建主義に対して自由主義の主張がまず現われ、
 やがてそのなかから民主主義が成長していったのです。」

〈苅部先生のレジュメから転載 終わり〉
〈以下は、聴講メモ〉

2 「政治化」と情報化社会

現代社会では、理性をもつ人間の存在が難しくなっている。
マスメディアの発達により、多くの情報が入ってきて、自分の頭で考え判断する
ことを難しくし、さらに、感情を刺激して人々の意識を集中させることによって、
現状を追認するという結果を起こす。
(例:人々が、サッカーのワールドカップに熱中している間に、
   国会では、重要な法案が進んでいく。)

つまり、社会をリアルに捉え、判断し、政治参加するのは難しい。
では、どうしたらよいのか。(境界に住むことの意味)
→内側にいるのはしかたがない。外からの声に耳をかたむける。

3 「政治的教養」と「遊び」

南原 繁(1889年〜1974年)「政治的教養」
これからの大学は、政治的教養の教育が大事。
新制大学化に尽力。
「一般教養科目」general education ←1940年代のアメリカでの教育革命を参考
よき市民(good citizen)になること、が基盤
戦後の日本の大学教育の出発点

〈聴講メモ 終わり〉

苅部先生のレジュメの最後に、安井てつ学長の「就任の辞」が引用されていました。

「collegeには、professionalの性質を有つものと、Liberalな性質をもつものがあります。
 ・・・ある種の教育は直接生活に必要なるものを授くるのではなく、
 人間生活を理解するに足るべき根本知識を与えて、特別の仕事に従事する基礎を
 造ることを目的とするものであります。
 即ち職業教育も基礎または背景を造るものであって、
 甲(プロフェッショナル)は、直ちに教育の結果を予想し、
 乙(リベラル)は、最善たる結果を将来に収めんがために其の基礎となるべきものを
 重大視するのであります。
 甲は、教育の近路を通り、乙は迂回するのであります。」
(安井てつ学長「就任の辞」1924.6 『学友会雑誌』5号 1926.3 掲載)

〈引用 終わり〉

1918年建学の東京女子大学は、リベラルエデュケーションのための大学。
リベラル=自由人の学問=精神の自由人
    =特定の職業、目的、利益のためではない。→政治のための教養

今回のシンポジウム会場は、安井てつホール。
安井先生は、学監として、新渡戸学長とともに、東京女子大学の初期の教育に尽力され、
のちに第二代学長も歴任されました。

東京女子大学 安井てつホール
この日は、丸山眞男文庫(東京女子大学図書館内)を見学させていただきました。






また、学生ホールにある購買部では、伝記『新渡戸稲造ものがたり』も紹介/販売して
いただいています。ありがとうございます。


2014/07/04

クラーク精神とロータリー

昭和11年10月7日の札幌RCの例会では、札幌訪問中の平生文部大臣が
次のように挨拶をしています。

引き続き、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)から引用します。

「・・・私はこのたび北海道大学に参り、色々創立当初よりの事情を見聞した
 のでありますが、実に感激に堪えないものが多かった。
 殊にウイリアム・スミス・クラークがわずか8ヵ月の間にその基礎を作ったと
 いうことは驚くべきことであるが、そのクラークは英国から移住した
 ピューリタンの血を受けた立派な人格者で『人を造る』という点に非常な
 力点を置いたことは吾らの学ばねばならんことであります。

 大学の50年沿革史で拝見したことであるが、時の黒田清隆氏は、
 『文化の進歩を図ることは、人を造ることである。その成果によって
 国が栄えもすれば衰えもするものである』といわれているが、
 宣なるかなと思う次第であります。
 新聞を編集する1人の学生が私の許に来り、『北大は自然科学だけであって
 人文科学がないから精神文化について欠けるところがあるのではないか』と
 尋ねました。
 そこで私は答えてそれはあれば好いが、而して人文科学がないために精神と
 いうことは当たらない。クラーク先生の如きは科学者であったが、
 当時如何に多くの人物を生んだことであるか。

 私はロータリーの精神が正しく徹底して会員がそれぞれ身を以て
 社会に奉仕すれば決して国が衰えるような心配はないと考えます。
 希くばService above Selfの精神を以て尽瘁(注:じんすい=自分の苦労を
 顧みることなく力を尽くすこと)して頂きたい。
 今や日本は思想的にも非常時であるが、ロータリアンがこれが打開に当って
 一層の責任のあることを自覚しなければならぬと思います。

 本日は突然出まして所感を述べさせて頂きうれしく思います。」

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう)1866年〜1945年
日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(文部大臣、貴族院議員)
1935年、ブラジルのコメンダトール勲章を受章。灘購買組合(日本初の生協)の
設立や、大阪ロータリークラブの設立にも尽力した。


佐藤昌介男爵とロータリークラブ

2014年6月18日(水)米山梅吉記念館

ロータリークラブは、国際的な社会奉仕連合団体のメンバークラブの総称。
1905年、アメリカのシカゴで誕生し、日本では、1920年、米山梅吉氏が、
初めてロータリークラブを設立しました。

今回の記念館訪問で、意外なことを発見しました。
それは、新渡戸博士の兄のような存在だった、同郷の佐藤昌介(北大初代総長)が、
ロータリークラブのガバナー(国際ロータリーの管理役員)を務めていたことです。
記念館の2階、ロータリークラブに関する展示室で、
佐藤昌介男爵の写真をみつけた時は、驚きました。

ロータリークラブのメンバーは、企業家や事業家(会社経営者)が中心である
というイメージをもっていたからです。

記念館の展示資料には、
「1936(昭和11)年7月、佐藤昌介(札幌)ガバナーに就任。」
と書かれています。(新渡戸は、1933年に逝去)

札幌農学校第一期生だった佐藤昌介は、アメリカ留学後、母校の教授に就任。
新渡戸博士と共に、日本初の農学博士になり、また、北海道大学(札幌農学校)の
初代総長、日米交換教授(第二代目。初代は新渡戸)を歴任するなど、
一貫してアカデミックな分野で活躍されましたので、ロータリアンで、
しかも、ガバナーまで務めていたとは、意外でした。

米山梅吉記念館の展示室に掲載されている佐藤昌介の写真

後日、学芸員の市川真理様が、関連資料をご提供くださり、
ガバナー就任の経緯などを知ることができました。

以下、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)より、抜粋します。

「札幌RCの誕生由来(p.4)
 札幌のRC(ロータリークラブ)は、東京RCのお世話により誕生。
 札幌では、大正時代から社会俱楽部を設立していて、市内一流の実業家らが、
 会合を随時おこなって、一つは修養にもつくし、一面明るい文化的都市を築くために
 努力もしていた。
 昭和7年12月3日が発会式、初代会長には、前北海道帝国大学総長の
 佐藤昌介男爵が推された。
 一世の徳望を担った佐藤男爵の会長就任は、俱楽部の充実をみて、その後、
 ガバナーともなり、札幌クラブを、日本ならびに世界のRCに強く認識せしめた。

 札幌RCの大きな移りゆき
 第一期時代(昭和7〜昭和11)(p.5)
 初代会長は佐藤男爵、札幌農学校第一期生として卒業生中最初に教授となり、
 さらに校長に就任、札幌農学校を護り育てて東北帝国大学農科大学に昇格
 せしめて学長となり、さらに北海道帝国大学として総合大学へ進展せしめて
 初代総長となって北大の礎石を造った本道の第一人者として厳然たる存在で
 あった。
 札幌RC の会員には会長としての適任者はほかにいくらでもあったのであるが、
 佐藤男爵を重んじ、昭和11年6月まで毎年改選期に再選されて、
 会長を歴任された。

 初代の米山ガバナー(東京3期)についで、・・・
 第5代は、わが佐藤男爵がガバナーに就任されたのである。
 東京、横浜、大阪からガバナーが選出される前例を破ってまだ田舎都市であった
 札幌からガバナーを出すことは破天荒であったが、これにはもとより佐藤男爵の
 ロータリアンとしての人格識見、ガバナーとして好適の人格者として
 認められたことも原因しようが、歴代ガバナーがこれを支持せられ、
 東京外大クラブがこれを支援せられた賜というべく、
 札幌RCの生みの親クラブの東京RCと常に連繋を保っていたことが大きく
 影響したものである。

 昭和10年においては、昭和9年の本道の凶作に対処し1月凶作義捐金を寄附し、
 4月には台湾の震災にお見舞いした。

 昭和11年において特記すべきは5月に佐藤男爵が次期ガバナーに当選したことで、
 ・・・佐藤男爵が渡米することになり、たまたまクロフォード・マカロー氏が
 来札されるのを機としてマカロー氏歓迎と佐藤男爵渡米壮行会を兼ねて
 会を催したことも記憶されるべきこと・・・」
 (注:マカロー氏は、前IR会長)

このほか、この資料からは、札幌RCへの訪問者は、多岐にわたる人々で
あったことがわかります。役人や大学関係者、芸術家などもいらっしゃいます。
また、家族会の開催や、ニコニコ箱、ロータリーソングなど、
いまに続くロータリークラブの恒例行事が、もうすでにこの時からの
伝統であったこともわかります。

新渡戸稲造博士は、札幌を第二の故郷として大切に思っていました。
6歳年上の佐藤昌介男爵は、同じ岩手県の出身で、稲造のアメリカ留学の際も、
先に留学していた佐藤に強く勧められて、ジョンズ・ホプキンズ大学で共に学び
その後、札幌農学校の教授に就任した佐藤のおかげで、稲造は同校の助教として
ドイツに公費留学することができました。
さらに、東京女子大学の初代学長に稲造を推薦した一人は、佐藤といわれています。
公私ともに、稲造のよき先輩、また兄貴分だった佐藤男爵が、稲造の没後、
ロータリークラブと深い関わりがあったのです。

佐藤昌介は、稲造没後6年を経て、1939(昭和14)年、83歳で人生の幕を閉じています。

個人的にも、メンバーの家族として、20年以上前から関わりのある
ロータリークラブについて、また、「米山奨学金」のことなど、初めて学ぶことができ、よい機会になりました。

このたびの米山梅吉記念館訪問につきましては、同館学芸員の市川真理様と
井上靖文学館(長泉町)の松本館長様にお世話になりました。
ありがとうございました。

米山梅吉記念館(静岡県駿東郡長泉町)
米山梅吉記念館のホームページは、こちら