・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/04/26

拓殖大学 後藤新平・新渡戸稲造記念講堂

2015年4月25日(土)11時〜
拓殖大学 文京キャンパス 
図書館・教室棟一階「後藤新平・新渡戸稲造記念講堂」

拓殖大学ルネサンス
文京キャンパス整備事業完成記念式典・祝賀会
にお招きいただきました。
このたびの完成に心よりお祝いを申し上げます。



この整備事業は、平成17年からおこなわれ、
このたび最終ステージが完了し、「図書館・教育棟(E館)」が
竣工。今年度から、商学部と政経学部は文京キャンパスで
4年間の一貫教育がおこなわれることになりました。

正門から入ると右に本部棟(A館)

今回竣工した図書館・教育棟(E館)
記念式典に先がけて、見学会に参加させていただきました。
落ち着いた色彩の図書館。最新の素晴らしい施設です。

図書館

図書館




俄然やる気が出そうな大きな「志」の書。

望月暁云「志」(寄贈 吉村洋治) 
教室

テラス(10時〜17時)

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂は、新しい図書館・教室棟の中にあります。
入口には、お二人の胸像があります。
台湾の許文龍氏からの寄贈です。

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂前の胸像

左が後藤新平学長、右が新渡戸稲造学監
式典の後は、9階の展望ラウンジで祝賀会も催されました。
このたびは本当におめでとうございました。
拓殖大学のホームページは、こちら


2015/04/20

拓殖大学 恩賜記念講堂(恩賜記念館)

拓殖大学 八王子キャンパス
かつて文京キャンパスにあった恩賜記念講堂(記念館)は、現在、
八王子キャンパスにあります。


左 当時の恩賜記念講堂 右 本館(現在のA館)

案内板には、次のように説明があります。

「恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、
 大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、
 平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する
 歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念
 講堂のものです。」
桂太郎像(恩賜記念講堂当時のもの)

館銘板(恩賜記念講堂当時のもの)
記念講堂では、かつて、新渡戸稲造第二代学監も講義をおこないました。

当時の記念講堂内部 中央に新渡戸学監 左に後藤学長
現在の記念館内部


記念館内部には、資料室があり、拓殖大学の歴史について、揮毫、偕楽帖
などの展示があります。

揮毫 上(後藤新平)下(新渡戸稲造)
◆後藤新平学長の揮毫(上)

欲窮千里目

次の漢詩からの引用(五音絶句)

登鸛鵲楼(とうかんじゃくろう)  王 之渙(おう しかん)

白日依山尽
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層楼

欲窮千里目 せんりのめを きわめんと ほっして
更上一層楼 さらにのぼる いっそうのろう

=遠くを見渡すために、さらに高いところへ登る


◆新渡戸稲造の揮毫

The Last of the Road for which the First is made.

出典は、ブラウニングの詩。
新渡戸博士ご本人は、この詩について次のように書いています。

・・・
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に 
the last of life for which the first was made とあるが、
僕は日ごろこの句の津々(しんしん)たる興味に感嘆する。意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」

・・・「一年二回の花盛り」 『自警録』 1929 (実業之日本) より  





偕楽帖(桂家 寄贈)



2015/04/19

拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾 開講式

2015年4月17日(金)11:00〜
拓殖大学 八王子国際キャンパス A 館5階 A524教室

平成27年度 拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾
〜新渡戸稲造に学ぶフローバル人材〜

第1期(前期)の開講式に伺いました。
八王子の校舎に伺うのは初めてです。
高尾駅から専用バスで10分ほど、広々とした緑豊かなキャンパスです。

開講式(司会:石川一喜 国際学部准教授)
挨拶    甲斐信好 国際開発研究所長
塾生紹介  赤石和則 国際開発教育センター長
基調講演  渡辺利夫 総長

今年度の育成塾は、選考を経た18名の学生さんたちが揃いました。
石川先生が、今日の開講式に先がけて「宿題」を出していました。
このコースに望むことを表わす漢字一字を選んでくることが宿題でした。
初日にその一字について、各自が発表して、楽しみながら自己紹介も。
初めての顔合わせの日でしたが、すぐにコミュニケーションが始まりました。

育成塾の「塾」には、理念があることを示してるいること。
日本の労働運動の父でもある新渡戸博士は、理念を基に行動することの
大切さを伝えた、元祖ファシリテーターでもある。

この育成塾で大切にすることは、
1 主体的に関わる
2 出会いをつくる
3 違っているものをもつ人から引き出す/学び合う

などのお話を伺いました。

続いて、渡辺総長の講演では、
グローバルということ(globe, global)
異文化理解/ツールとしての言語の大切さ
international = inter+national
(nationalistでなければ、internationalistにはなれない)

などのお話がありました。



最後にお弁当をいただきながらのランチタイムも
ご一緒させていただきました。
学生さんたちの前向きな姿勢が印象的でした。

最後に、小著『新渡戸稲造ものがたり』(拓殖大学オリジナル表紙版)が、
大学より一人一人に配布されました。
読んでいただけたら嬉しいです。

私も共に学ぶ機会になり、また、直接学生さんたちと
お話させていただき、ありがとうございました。
諸先生に御礼を申し上げます。


2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。






2015/04/16

台湾 国立台湾大学(旧台北帝国大学)

2015年3月19日(木曜日) 台湾大学キャンパスへ


国立台湾大学(旧台北帝国大学)正門



正門から大学構内へ ヤシの並木が印象的

大学図書館で、データベース検索しました。
日本の統治時代に発行されていた「台湾日日新報」
キーワード検索
「新渡戸」 すべて   735件
『新渡戸』 タイトル  341件
「新渡戸」 作者     97件

新聞に「新渡戸」が作者として登場しているのが100件近く。
これはかなりの数に登ります。
なぜでしょうか。
たとえば、「糖業改良意見」というタイトルで連載記事が
12回にわたって掲載されています。
1901年11月19日(一)〜12月3日(十二) 
また、1911年に赤十字台北病院でおこなわれた講演録も掲載
されたようです。

ちなみに、
「後藤」のキーワード検索は、58件。思いのほか少ないように
思いました。

記事については引き続き調査。

現在の国立台湾大学の前身は、日本の統治時代だった1928年に
設立された台北帝国大学。
帝国大学として、第七番目に開校。現在の大阪大学や名古屋大学よりも
前のことでした。

キャンパスは、帝国大学時代の建物も残り、いまも大切に使われて
います。

2015/04/08

台湾 李登輝 元総統を訪ねて

2015年3月18日(水)李登輝 元総統の事務所へ

このたびの台湾訪問を機に、李登輝 元総統に、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を寄贈させていただきました。
李登輝氏は、日本でも多くの著書があります。
新渡戸博士からも大きな影響を受けていらっしゃることは、
ご著書の中などでも紹介されています。
ご著書『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージとは』では、
日本人の思想について、書かれています。

この日はちょうど、日本から岡山学芸館高等学校の生徒さんたちが
李登輝氏のご講演を聴くために来訪されました。
同校の参与 森美智子様はじめ、高校生39名(1〜3年生の希望者)の
みなさまと一緒に聴講させていただきました。

演題は、「日本と台湾のこれまでの歴史と私が受けた教育」

日本の若者たちのために、熱意あるお話をされました。
日本が台湾を統治していた(台湾が日本の一部であった)時代に
生まれ育った李登輝氏は、日本の教育から多くの知識を得て、
人格を形成されました。
新渡戸博士も大変な読書家で知られていますが、
「児童百科事典」(小学館)や800冊の岩波文庫を読破されるなど、
李登輝氏も若いころから本当に多くの本を読まれていることに
驚かされました。



生徒さんから、「グローバルな人材になるためには、
どうしたらいいでしょうか」という質問を受けると、すぐに、
「とにかく勉強する。聞いたこと、書いてあることではなく
自分で実際に本物を見ることが大切」とお答えになっていました。

私にとっても学び多いお話を聞かせていただきました。
このたびの貴重な機会をご提供くださいました関係者の皆様に
感謝申し上げます。

学校法人 森教育学園 岡山学芸館高校は、平成25年12月、
許文龍氏が制作された「新渡戸稲造博士の胸像」を、
同氏より寄贈されました。
同校では、新渡戸博士のご著書『武士道』を必読書に指定されて
いるそうです。国際教育にも大変熱心な学校です。

同校のホームページは、こちら


台湾 日本人学校を訪問

2015年3月16日(月)13時 台湾の日本人学校

台北市内や近郊に住む日本人の子どもたちが多く通っている
日本人学校(Taipei Japanese School)を訪ねました。
台北の中心からMRT(電車)淡水信義線で15分程度、
「芝山(Zinshan)」駅から歩いて20分ほどのところです。
通りを隔てた隣には、アメリカン・スクールがあります。


表札は、李登輝元総統の筆を元にしたもの。
守衛の方に、面会の約束があることを伝え、校内に入れていただきました。




応接室で、校長先生と教頭先生にお目にかかりました。
この日本人学校には、台北在住の日本人の子どものうち約80%が
通っているそうです。
(残りの約20%は、現地校やアメリカン・スクールに登校。)

小学生と中学生の9学年、820名もの生徒が在校しています。
在校期間は、平均して3年から5,6年間。
保護者の転勤による転入があるそうです。

日本の文部科学省から派遣されている教職員は現在27名、
3年周期で異動します。
台湾で現地採用されている職員は、28名。




校長先生、教頭先生のお話によりますと、
子どもたちは、文部科学省で定められている教育課程に加え、
英語、中国語を学びます。
台湾については、「台湾を学ぶ」という総合学習の中で学ぶことに
なっているそうです。
小学校6年生で、八田輿一博士について学び、
修学旅行で八田記念公園を訪れます。

2013年5月24日には、李登輝元総統が、同校にて講演をされました。
後藤新平伯についてなどを話されたようです。
この時の揮毫を元に正門の表札が作成されました。





『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
かけぬける』を同校に寄贈させていただきました。
日本の先人たちが台湾でどのような功績を残されたのか、
台湾にご縁のある日本の子どもたちが、その一端を知り、また、
先人の生き方から、「真の国際人」について考えるきっかけにして
いただければ、と願っています。

同書は、図書室に置いてくださるそうです。
お役に立てていただければ幸いです。

台北日本人学校 図書室

ちょうど春休み中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでしたが、
教頭先生が、図書室など校内をご案内くださいました。




春休み期間中にもかかわらず、お迎えくださりありがとうございました。
亀山佳久校長先生、居原田晃教頭先生、
両先生にあらためて御礼を申し上げます。

2015/04/03

台湾 磯永吉と末永仁 二人の日本人農業技師

2015年3月14日(土) 国立台湾大学 農業試験場「磯 永吉 小屋」

台湾のお米は、大変おいしいのですが、
そのお米「蓬萊米(ほうらいまい)」について、
台湾大学の農業試験場内にある「磯 永吉(いそ えいきち) 小屋」
で紹介されています。





それまでの在来米を改良し、日本人の好みに合った「蓬萊米」
の栽培を可能にしたのが、磯 永吉博士(1886年〜1972年)と、
末永 仁(すえなが めぐむ)博士(1885年〜1939年)です。

二期作が可能な台湾で、良質なお米が取れるようになり、
内地(日本の本土)向けの生産が増えて、台湾の経済発展に
つながりました。

磯博士は、北海道帝国大学(旧札幌農学校、現在の北海道大学)の
農学博士。新渡戸稲造博士の後輩にあたります。

「磯 永吉 小屋」には、蓬萊米の父、磯 永吉博士と
蓬萊米の母、末永 仁博士の銅像とともに、
当時の実験器具や資料などが展示され、二人の功績が顕彰されています。










このお二人の胸像を制作されたのは、許文龍氏です。
収集した写真を元に、自ら粘土で制作し、鋳型を起こして、
銅像に仕上げたそうです。
その思いについて、許文龍氏は、次のように述べています。
(館内の展示資料より)

〈 磯 永吉、末永 仁、両人の胸像を造るに想うこと

台湾における稲作の発展において、磯永吉博士は「蓬萊米の父」、
末永仁農事試験場長は「蓬萊米の母」と尊敬をもってこう呼ばれています。

昔、まだ貧しい時代には食卓で蓬萊米を口にすることは本当に贅沢なこと
でした。私たちは、今の幸せの根源を忘れず、お米を口にするたびに
その恩徳に感謝すべきではないでしょうか。

以前、私はシンガポールに住んでいたことがありますが、
シンガポールでは、その土地に功績を残した英国人を讃え、
その名を通りの名前として残し、あるいは、銅像を建てて
後世にその功績を伝えています。インドにおいてでさえも
英国人の銅像をきちんと残しています。私は、その土地に功績のあった
人々に対し、国籍を問わず敬意をもってその功績を讃え、記念すべきだと
思っています。(以下、略) 許文龍 2012.4.19 〉

許文龍氏は、日本の統治時代の台南に生まれ、日本の教育を受けて
育ちました。
許氏は、常に公平な視点で日本の統治について評価されています。
また、台湾を代表する実業家であり、病院や博物館を設立するなど
積極的に社会貢献をおこなっていらっしゃいます。

許文龍氏訪問についての記事は、こちらへ。

台湾ビールにも、蓬萊米が原料として使われています。

すっきりおいしい台湾ビール
現在の国立台湾大学は、
1928(昭和3)年、日本の第七番目の帝国大学として、設立されました。
現在の大阪大学や名古屋大学よりも前のことです。
1945年、日本の敗戦により、日本の統治時代が終わると、
中華民国政府によって、国立台湾大学となり、現在にいたっています。









2015/04/02

台湾 児玉源太郎と後藤新平の銅像

2015年3月14日(土)国立台湾博物館(台北)

台北の国立台湾博物館(National Taiwan Museum)を訪問しました。
この博物館は、1905年、「児玉総督 後藤民政長官 記念博物館」として
建設されました。
新渡戸稲造博士が、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の依頼で
台湾の糖業発展に尽くしたのが、1901年〜1903年ごろですので、
ちょうど同時代です。
現在の建物は、1915年の建造で、台湾国内で最も歴史ある建物の一つです。
完成当時の建物の写真は、こちら


正面玄関を入ると、大きなエントランスロビーがあり、天井には、
美しいステンドグラスが見えます。
児玉家と後藤家の家紋をデザインしたステンドグラスとのことでした。







このエントランスロビーの両側には、かつて、児玉総督と後藤民政長官の像が
それぞれ設置されていたそうです。
現在は、代わりに大壺が飾られています。



日本の統治時代が終わると、この二人の像は、ここから撤去されました。
長い年月を経て、現在、同館の三階に再び展示されています。
通常は非公開の銅像を特別に見学させていただきました。

向かって左に児玉総督、右に後藤民政長官の像

児玉源太郎の像



後藤新平の像

制作は、彫刻家の新海竹太郎(1868年〜1927年)。
忠実に表現された作品で、後藤新平伯のトレードマーク「鼻眼鏡」の跡も
確認できます。

1900年1月、アメリカで『武士道』を出版したばかりの新渡戸博士は、
児玉総督と後藤新平民政長官の熱心な依頼を受け、
1901年、両氏の下で働き、台湾の農業発展に尽くす決意をし、
後藤新平と運命的な出会いをします。新渡戸博士、39歳。

(『新渡戸稲造ものがたり』p.114〜p.124 
  第八章 台湾の砂糖産業と植民地政策)

初めて海外勤務を経験し、児玉総督や後藤民政長官から多くを学び、
自分の専門とする農学の分野で大きな実績を残したことは、
まだ若かった新渡戸博士にとって、大きなステップになったと思われます。

同郷の後藤新平伯とは、このあと、生涯を通じて、師弟、または、
兄弟のような親しい関係が続き、後藤伯の外遊にも同行します。
そして、数年後、後藤伯とパリを訪れていた時に、国際連盟の事務次長の
就任が決まるのです。

この台湾時代が大きな転機になったといえるのではないでしょうか。


同館の初代館長、川上 瀧彌(かわかみ たきや 1971年〜1915年)も
札幌農学校の出身で、北海道のマリモ研究で知られる植物学者。
開館に向けて奔走し、開館の翌日に若くして病死しています。

同館の一階には、台湾の少数民族についての興味深い展示もあります。